代々木第二体育館でのニッキー戦の後、会場内である男性に声を掛けられた。顔を見ただけでは誰だか分からなかったが、通訳の方がついていて、その方によると韓国の元WBC世界バンタム級王者、辺丁一(ビョン・ジョンイル)氏だという。
「え、どうしてこんなところに?」と不思議に思っていると、やはり元WBC世界バンタム級王者の薬師寺保栄氏も現れた。何やら親しそうに話す二人。かつて激闘を繰り広げたのに、もうこんなに仲良くなっているのかと驚く。ボクサーというのは意外とそういうものなのかもしれない。
薬師寺さんによると辺氏は今韓国でボクシングのプロモーターをやっていて、彼がプロデュースする興行に出て欲しいという私に対するオファーのようだ。
韓国でも最近女子ボクシングの人気が出てきていて、凄く注目されている韓国チャンピオンがいるのだという。その選手と「韓国チャンピオンVS日本チャンピオン」をやれば盛り上がるだろうとのことなのだが。
日程を聞くと、翌年の2003年1月24日にソウルで行うということで、試合まで後1カ月ほどしかない。それまでに骨はまだ治らないだろうし、試合後から痛みも少し出てきた。
「とても出たいんですけど、今ちょっと右腕を骨折していて・・・すみません」
と断ると、辺氏は
「それでも大丈夫です」
私は耳を疑った。
「え?折れてるんですよ」
「はい、大丈夫です」
え?どういうこと?通訳さん、ちゃんと伝えてくれてる?
私の頭の中は「???」でいっぱいになった。
改めて通訳さんに冷静に話を聞くと、辺氏は韓国の女子チャンピオン、イ・インヨン選手を売り出し、世界チャンピオンにしたいようだ。1月24日はもう既にソウルのチャムシル体育館という会場を取ってあり、地上波のテレビで生放送することも決まっているそう。
「え、私じゃなくても」とも思ったが、
そこは「韓国チャンピオンvs日本チャンピオン」という図式にしたいし、「対戦相手は八島有美」だということも発表済みだという。
「どうして!それは順番が逆じゃないの?」
発表が先、オファーが後って・・・。
それどころか私が人気モデルで、ティーンのファッション誌の表紙を飾ったこともあるとのデマ情報まで流しているという。
マジか!これにはさすがに言葉も出ない。恐るべし韓国。
あ、まぁこういうことは日本ももしかしたらやってるかもしれないよね。本国でのことなんて分からないし。
「それにしても、ソウルで『韓国チャンピオンvs日本チャンピオン』だなんてワクワクする。めっちゃ行きたい」などと思っていると、会長やその場にいた仲間達が
「行っちゃえば。今日も勝てたし」
とか無責任なことを言ってくる。試合するのは私なのに。
とりあえず、この場の空気に流されちゃダメだ。この日はドクターの意見を聞いてから、ということにして終わった。
「じゃあソウルで待ってるからね」
辺氏は満面の笑みで会場を去って行った。
この日の試合、実はドクターは会場に観戦にいらしていた。試合も勝ったし、そんなに心配な場面もなかったことから、韓国行きも割とすんなり承諾して下さった。
もう断る理由はない。後は韓国に乗り込んで試合をするだけだ。
初めての韓国。一月のソウルの寒さはハンパない。雪もチラつき身体の芯から冷えるという感じ。どこの家庭にもオンドルという床暖房が付いているのも頷ける。
ただホテルの部屋も試合会場も本当に寒かった。もっと暖房が効いてると思っていたので、その点は想定外だった。
当日はKBSという韓国のメジャーなTV局がゴールデンタイム(19時頃から)に生放送するということで、相当話題になっていた。
調整のための練習をさせて貰ったジムでも、何人かの人にサインを求められた。本当に私に関してあることないこと報道してたんだろうなぁ。
生放送のためか、寒さのせいか私は少し固くなっていた。心なしか前回よりも腕が痛んだ。
対戦相手のイ・インヨン選手は普段は大型トラックの運転手をやっているらしい。運動神経が良さそうで全体的に筋肉質だ。目つきも鋭い。
外見が怖い選手とはこれまで何回もやってきたので、それでビビることはなかった。アウェーな声援も気にならない。
ただ、相手は予想以上に強かった。さすがは辺丁一氏が力を入れている韓国チャンピオン。パンチも強いし、動きも早い。スタミナもあるし、隙が全く見当たらない。
アドレナリンが出まくっていたので、試合中右腕は全然痛くはなかったのだが、それでも右での強打は出来ない。ラウンドが進むごとに徐々に押され始めるが、私のパンチは空を切る。それに対し相手のパンチは容赦なく私の顔面を捉えていく。
今回はダメかも。いや、でも・・・。私はいつでも諦めが悪い。いつものように「大逆転」もあり得るはずだ。
必死でなんとか突破口を探すが、一向に見つからない。隙が無さすぎる。そういえば試合前も自信満々だったインヨン。今までの試合でのKO率が高いそうで、今回もKO勝ちを宣言していたらしい。「倒したい」そんな気迫がビンビン伝わってくる。それでも絶対に倒れる訳にはいかない。
「今まで試合でもスパーリングでもダウンしたことは一度もない」
ちっぽけなプライドかもしれないけれど、KO負けはしたくない、隙があれば勝ちにいきたい。
そう思って最後まで諦めることはしなかったが、今回は奇跡は起きない。判定3-0の完敗だった。インヨンは倒すことが出来なくて悔しそうだった。
帰りの飛行機の中、多くの人が新聞を読んでいたのだが、この試合の写真が大きく載っていてビックリした。私がインヨンに思いっきりぶん殴られてる写真だ。みんな持っていたから、たぶん一般紙ではないかと思う。女子のボクシングがあんなに大きく扱われるなんて日本では絶対に考えられなかった。これからはどうなのだろう。
ちなみにこのイ・インヨン選手は後に韓国女子初の世界チャンピオンになった。トラック運転手を続けているのかは分からない。