次に目が覚めたのは、翌日の病院のベッドの上。翌日に目を覚ますなんて、本当に奇跡的だと言われた。普通は一週間後、一カ月後に目を覚ますケースが多く、中にはもう永遠に目を覚まさずに植物状態になることもあるらしい。
目を開けると天井がボヤけて見えたが、どこにいるのか理解が出来ない。
「え、もう試合行かなくちゃ。遅刻しちゃうじゃん」
そんなことをぼんやりと考えた。
「え、終わった?そっか・・・負けたんだっけ、私」
そこでまた意識がなくなり、数時間後に目が覚める。

何度かそんなことを繰り返して、緊急搬送されて開頭手術を受けたことを朦朧とした意識の中で段々と理解していく。そういえば夢の中で
「髪の毛を剃りますよ」
と言われたような気もする。

頭が痛い。身体が痛い。脳圧が上がらないように、頭蓋骨の中から何本かチューブが出ている。それを無意識に抜かないように、手足はベッドに固定されている。
寝返りも打てない。何にも出来ない。関係ないけど、頭は坊主頭。
辛い。私の身体、どうなってんの?なんだ、この状態は。今までの人生で最悪の状態かもしれない。

そっと目を瞑ると目の前に赤・青・黄色の原色の景色。
「これって三途の川のお花畑ってヤツ?」ふと考える。
たぶん違うよね、脳が傷ついたからその影響か何か。かなり後に冷静になってからはそう思った。
手術から1週間程経ったある日、私は急に喋れなくなった。言葉は分かるのだが、口が上手く動かない。どうしよう?看護師さんに
「喋れません」
と身振り手振りでやっと伝えた。MRIで検査をしてみたが、特に言語野に異常はないとのことで、少しリハビリをやってみることにした。
脳は不思議だ。急に幼児のような鏡文字になったり、文字が読めなくてただの変な図形に見えたりした。

味覚もおかしい。何を食べても味がしなかった。減量中、甘い物をずっと我慢していて、試合が終わったらクッキーを食べたいと思っていたのだが、その待望のクッキーを食べても砂を噛んでいるような感覚なのだ。あの時の絶望といったら…。
「もし一生食べ物の味が分からなかったらどうしよう?命が助かったのは嬉しいけど、これからずっと何を食べても砂の味なんて耐えられない!」
ボクシングが出来ないショックとはまた別物のショック。本気で心配していたのだが、20日くらい経つと味覚は徐々に回復していった。

言葉はもう少し掛かり、半年くらいリハビリを繰り返して何とか喋れるようになった。実は今も言葉を噛むことが多く、特に長いカタカナ語等は苦手なのだが、それはこの事故の影響か、生まれつきの特性なのかは今となってはもう分からない。

 

さて肝心のボクシングのことだが…。
私が負った怪我は「頭部急性硬膜下血腫」であり、あの赤井英和さんと同じ状態だった。
ドリルで頭蓋骨に何カ所か穴を開けて、その間をノコギリで切って左側の頭蓋骨を丸く繰り抜いた感じ。
「もうボクシングは出来ないよね…」
なんとなく薄々は分かってたけど、それをハッキリさせるのが怖くて、それだけはドクターに質問出来なかった。だが、退院する時にはもう逃げる訳にはいかず、
恐る恐る聞いてみた。
「先生、あの…えっと、ボクシングってもう、んー…やらない方が…いいんですよ、ね?」
「そうですね。コンタクトスポーツはだめです。普通の骨と違って、頭蓋骨はくっ付かないんですよ。穴も埋まらないし、元には戻らない」

…だよね。分かってはいたけど、改めてドクターの言葉で聞くと、もうどうしようもない事実を突き付けられた気がして、涙が出そうになる。
今までずっとボクシング中心の生活を送ってきた。朝ランニングをして、その後何時間も練習をして、筋トレして、ボクシングのビデオを見て研究して、食べ物も節制して、プロテイン飲んで…。

正にボクシング漬けの日々。世界チャンピオンを目指していた。その夢を唐突に奪われた。限界を感じた訳ではない。自ら引退を選んだ訳でもない。強制終了。
明日から何をして生きていこう?私は途方に暮れた。

退院後、何日も、いや何か月もよく眠れない日々が続いた。夜になるとあの試合の記憶が甦ってくる。
「どうして?どうして最終ラウンドのゴングの後、ガードを下げたんだろう。リング上では常に危機感を持つべきなのに。ホント、甘すぎる私って。あれがなければ、勝てなかったとしてもリベンジするチャンスはあったに違いない」
力を抜いたところにパンチを貰ったからいつもよりも脳が揺れたのだと思う。
次からは気をつけよう!と思っても、もう次はない。
「次はこういう作戦でいこう」
と考えるのも無駄だ。でもいつの間にかそんなことを考えてしまう。何もかもが虚しい。
今更考えても仕方ないことが、どんどん浮かんできて眠れない。そして
「ボクシングの出来ないボクサーはこれから何をすればいいのだろう。てか、どうして生きてるんだろう。いっそのこと、あの時リングで死んでた方がカッコ良かったのかもしれない。ボクサーとして終われたし」
そんなことが頭を過る日もあった。

でも、日が経つにつれて、命の大切さ、周りへの感謝を考えるようになった。これまでの私は自分のことしか考えてなかったんじゃないのか?
せっかく奇跡的に助かった命。手術をしても成功する確率は50%程で、成功したとしても植物状態になる確率も高いと言われていたそうだ。
あの日私に付き添ってくれたジムの仲間やスタッフの方、迅速に搬送して下さった救急隊員、手術をして下さった病院の先生、看護師さん、理学療法士さん。そしてついでに私の運と体力。
いろんな奇跡が重なって助かった命だ。きっとまだやり残した使命があるのかもしれない。そう考えて出来るだけ前向きに過ごそうと決めた。

そして人なんて、いつ死ぬか分からないものだとしみじみ思った。
デイフェンスは上手い方だと言われていた。試合でもスパーリングでもダウンしたことがない。試合で死ぬことなんて考えてもいなかったのだ。

減量中は食べられなかったから、試合後に食べようと用意しておいた部屋いっぱいのお菓子。
「面倒くさい。試合が終わったら片付けよう」と思って、散らかり放題だった部屋。他人には絶対に読まれたくない秘密の日記。
もしあの時死んでいたら、みんなに見られてたんだなぁ、と思うとゾッとする。
朝出掛ける時は、当然ここに帰ってくると思っていた。みんな出掛ける時にはそう思うだろう。だが…絶対はないとこの時思い知った。人間はいつ死んでもおかしくない危うい存在なのだ。
この一件から、人に見られたら恥ずかしい物は早めに処分することにした。それか、まぁ見られてもしゃーない!と開き直ること。

そして自由に喋れること、食べ物の味が分かること、動けること、その他毎日の些細なことを楽しんで感謝して生きる。よく言われてる当たり前のことかもしれないが、死にそうになったことで改めて実感出来た。そして何十年経っても決して忘れてはいけない大切なことだと心に刻んだ。

それからこれもめっちゃ当たり前のことだが、頭は大事!脳は本当に柔らかいお豆腐のような物で、それが頭蓋骨に守られて浮かんでいるのだ。格闘技をやっていない一般の方も頭は絶対に強打してはいけない。いやあまり強くなくても打たないように気をつけて欲しい。どんなことがあっても頭は必ず守って下さいね。

投稿者 GB