2004年5月23日。私の最後の試合となった日本フライ級タイトルマッチの防衛戦が六本木ベルファーレで行われた。対戦相手の柴田早千予選手はキックの世界チャンピオンでもある。パワフルなパンチと底なしのスタミナで相手を追い詰め、それまでも数えきれない程の勝利の山を築いてきた。「キックの鬼姫」という異名も持っている。
試合の一カ月程前、相手ジムの会長からビデオテープが自宅に送られてきた。
「あれ、住所教えたっけか?」
ちょっと不思議に思ったけど、もしかして誰かに聞いたのかもしれない。
早速ビデオを再生してみると、柴田選手のキックの試合、ボクシングの試合のダイジェスト版だった。物凄い形相で相手に向かっていき、連打、連打、連打。パンチを貰っても何があってもその連打は止まらない。それが止まるのは、相手が倒れるか、レフェリーによるダウンが告げられるかのどちらかだ。
言わば「柴田早千予KO集」どうしてこんな物を?
これを見せて私をビビらせようというのか。そんな分かり易い作戦には乗るはずがない・・・。と、思っていたのだが、試合が近づくに連れて「怖い」という気持ちがどんどん大きくなる。
それまでの試合では試合前に「怖い」と思ったことはなかった。骨折していた試合でも韓国チャンピオンとの試合でも、オーストラリアチャンピオンとの試合でも怖さはなく、楽しみな気持ちの方が大きかった。
しかし不思議なことに、この試合の前の私は、得たいの知れぬ恐怖心にすっかり飲まれていたのだ。
相手の迫力はリングインする前から凄かった。試合前のインタビューで
「殺すつもりでいきます!」
と言ったり、栄養ドリンクを5,6本一気に飲んでいた、とかいう情報が回ってきたり。
リングインしてからのパフォーマンスも凝っていて、インディアンの扮装をして石斧をこちらに向けて睨みつけてきた。あまりに彼女らしくて、思わず笑ってしまう。そして「冷静に、冷静に」と自分に言い聞かせる。
相手より私の方がリーチが長い。フットワークを使いながら鋭いジャブをついて相手を近づけない。そして相手のフックよりも私のワンツーの方が先に当たるはずだ。
試合開始早々、渾身の力で襲い掛かってくる柴田選手。
「え、10ラウンドあるのに最初からこんなに来るの?」
予想はしていたものの、本当にそうなのかと少しビックリしたが、ここはフットワークとパリーでその攻撃をかわす。柴田選手はペース配分などまるで考えていない。この一瞬が全て、といった感じのファイトスタイルだ。
獲物を狙うような鋭い目つきで私をロックオンし、「逃がすものか」とばかりに執拗にリング上を追い回す。私も得意のストレート系のパンチで相手の突進を止めようと試みた。だが、パンチが当たっても全然止まらない。一瞬も止まらない。これまでの相手とはまるで違う。
「痛くないの?疲れないの?神経がないの?ゾンビなの?」
この時ほど自分のパンチの無力さを感じたことはない。
そしてこの会場のリングは規定の物よりかなり狭く、フットワークもあまり有効に使えなかった。段々相手のペースにハマっていくのが分かる。
「何とかしなくちゃ・・・このままじゃ負ける」
そうは思うのだが、打開策が見つからない。そうこうしているうちに相手のボディパンチを2,3発喰らう。一瞬息が出来なくて、ダウンしそうになったが、そこは意地でも倒れなかった。
「試合でもスパーリングでも一度もダウンをしたことがない」
ここで倒れる訳にはいかない。私のちっぽけなプライドだった。
KO勝ちをしようと、相手は必死になってパンチを叩き込んでくる。パワーとスピードはラウンドが進んでも衰えることはない。1ラウンド目から全く変わらない。
「凄い、この人!どうしてこんなことが可能なんだろう?」
只々、純粋に凄い選手だと思った。
「もう負けるかもしれない。でもKO負けだけは絶対にしたくない」
そう思って必死に応戦しているうちに、最終ラウンド終了のゴングが鳴った。
「終わった。倒れなかった。凄いよ、早千予。めっちゃ強かった。でも私も頑張ったでしょ?」
そんなことを考えて、身体の力を抜いた瞬間、相手のフックが私の左側頭部に当たった。すぐにその箇所が「カァーッ」と熱くなるのが分かった。
「え、何これ。ヤバいヤツ?」
でもスパーリングの時も何回か経験したことのある感覚だ。
「大丈夫、大丈夫、大丈夫・・・」
私は自分に言い聞かせた。
判定は3-0で相手の圧勝。私の完敗だ。取り敢えず相手陣営に挨拶しに行って、応援してくれたお客様に挨拶して、客席でも知り合いと少し言葉を交わす。
控室へと続く階段を登り、セコンド陣と話をしながらバンテージを外して、シューズを脱いでいた時だった。
「なんか急に気持ち悪くなった。吐くかもしれない」
一人でトイレに行こうとしたが、後輩の女子選手が個室にまで一緒に入ってくれた。
頭が熱い。気持ち悪い。やっぱりヤバいのか、この感じ・・・。
「死」という言葉が不意に脳裏を掠める。
「嫌だ、嫌だ、嫌だ・・・。何事もありませんように!」
そんな願いも虚しく、私の記憶はそこで途絶えた。